上尊鉱業豊州炭鉱(福岡県田川郡川崎町)

 昭和35年9月20日午前1時ごろ、福岡県田川郡川崎町三ケ瀬にあった上尊豊州炭鉱において、出水のため、作業中の鉱員220名のうち、67名が遭難するという、当時戦後最大の炭鉱事故が発生した。

豊州炭鉱は当時、上田尊之助氏が経営、従業員800名余り、月産約1万2000トン、主として国鉄と九州電力に売炭していた。その他、糒(ほしい)炭鉱(田川市糒)を所有していた。

 本災害の発生は、9月20日午前零時過ぎ、抗夫の1人が坑口から115メートルのあたり で坑道に水が吹き出しているのを発見。係員が現場へ駆けつけ事態の急なのを知り、坑内の詰所に退避の連絡をした。
 坑内の作業場は、芳の谷区域と大焼区域に分かれ、両区域とも坑口から2000メートル以上、地表から約300メートルの深さの位置。芳の谷区域には連絡がとれたが、大焼区域には落盤によって電話線が切断され連絡がとれなかった。結果、両区域合わせて67名の行方不明者を出すに至った。
 救出作業は、労使、主婦会のほか、消防団、自衛隊の応援を求めて懸命に行なわれたが、午前3時には、坑口から15メートルの位置まで水位が上昇してきて、困難さをきわめた。
 大惨事を起こした坑内出水は、坑口から約250メートル離れた中元寺川の川底が陥没し、古洞を伝わって川水が流入したことによる。
 事故発生の前日には、北九州一帯に豪雨があり、中元寺川の水量が増えていた。
 陥没孔の深さは4メートル余り。川底から3メートルほどのところに炭層が出ており、孔の底から古洞が川底に広がっていた。この古洞がいつごろ採掘されたものなのか。現場に居合わせた人たちは、「かなり昔のこと。明治、大正のころのものではないか」と言うも、誰からも明確な答えは得られなかった。
 さらに、川底陥没地点の周辺では、事故が発生する数ヶ月前から、地下に相次いで奇怪な出来事が起こっていた。それは陥没孔から4メートルほど離れた民家の土間や庭先きに大きな穴が開いて家がつぶれ、穴から火柱が上がり煙を吹いて石炭燃焼の臭いを放ったり、近所の十数戸の井戸水が温泉のように温かい湯となったりという異変が続き、周辺の人々が深刻な不安を訴えていた事実があった。古洞の中で火災が起こっていたためらしい。また、昭和28年、陥没し倒壊した家屋の者が自分の家の床下から石炭盗掘を行なったいたという事件もあったという。
 今回の川底陥没と同時に大爆発を起こしたこの地区の被害範囲は拡大を続け、いつまた爆発や陥没を起こすとも知れぬ一触即発の危険状態にあったため、当時田川市では15世帯60名余りを地区公民館に強制避難させた。
 この豊州炭鉱事故の根本原因は、川底下数メートルの所まで掘り進められていた古洞に川水が流入したという全く前例のないものであったが、この古洞の所在が当時監督官庁の通産局にもつかめていなかった。それは、戦災で古洞の記録が焼けてしまい昔の採掘跡がわからなかったこと、中小炭鉱では石炭の景気の変動で経営者がしばしばかわり採掘跡の報告が不完全であったこと、さらに盗掘による非合法の坑道跡が無数にあって、監督官庁にもさっぱりわかっていなかった等の理由があった。
 このような状況の中で、坑内で働く人たちは常に恐怖の死にさらされながら石炭を掘っていたということである。
 この事故をきっかけに、豊州炭鉱は昭和35年9月閉山。昭和36年3月、通産省の勧告によって遺体収容作業も断念された。67人は今もそのまま地底で眠ったままである。
(第35回国会 参議院商工委員会第4号 昭和35年10月15日 阿具根登委員発言 参照)

* 阿具根 登(1912 - 2004)。元日本社会党参議院議員。 元参議院副議長。三池炭鉱労働組合の二代目組合長(1947 - 1953)。1953年(昭和28)、参院選に全国区から社会党公認で出馬し当選。三井三池争議では社会党議員として調停役に回った。

(2008年6月9日撮影)

 中元寺(ちゅうがんじ)川に架かる馬ノ鼻(うまのはな)橋から、彦山川に至る下流方面を撮る。右岸側は田川郡川崎町池尻。左岸側は田川市。同橋は「昭和51年3月竣工」。
 その向こうに写る橋は国道322号線に架かる三ケ瀬橋。その先で、川床が陥没、悲惨な炭鉱事故が起きた。

(2008年6月9日撮影)

 馬ノ鼻橋から上流方面を撮る。同中元寺川上流付近(田川郡添田町)にはゲンジボタルが自然生息しているという。

(2008年6月9日撮影)

 昔、馬ノ鼻橋には田中新庄炭鉱から石炭を運び出すための馬車鉄道が走っていたという。馬にトロッコを引かせて、国鉄池尻駅まで運んでいた。現在、同橋を渡った田川市側に、田中新庄炭鉱の旧炭住長屋とボタ山跡が残る。

豊州炭鉱二尺坑の排気坑口(2003年9月撮影)

 国道322号線の三ケ瀬信号交差点から少し西へ入った所にある神社の付近に、豊州炭鉱の坑口が今も残る。同坑口は、大正末期から終戦直後まで採炭が続いた二尺坑の排気坑口(田川郡川崎町三ケ瀬)で、高さ約1.5メートルの馬蹄形コンクリート造り。別の場所にあった石炭搬出用の本坑口から送り込まれた風が坑内を通り、汚れた空気をここから吹き 出すのに使われていた。
 それが昭和63年9月、民家の鉱害復旧工事の際、28年ぶりに完全な形のまま姿を現したもので、坑内水の利用を理由に通産局等に保存を申請、認められたものである。同坑口は、採炭をやめた後も、豊州炭鉱救護隊の練習坑道として使われていたという。

同上

 現在の持ち主に許可を得て、坑口内部へ入り写真を撮らせてもらった。坑道は当然埋立てられていたが、隙間から冷水が湧き出ていた。

同上

 

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