井之浦炭坑跡  福岡県嘉穂郡幸袋町井之浦 (2008年6月9日撮影)


 幸袋町(こうぶくろまち)は、1963年4月、飯塚市・二瀬町・鎮西村と共に合併して飯塚市となり、自治体としては消滅した。 1960年の国勢調査によると、幸袋町には12700人程が暮らしていた。主幹産業として日鉄二瀬炭鉱高雄坑をはじめとした石炭鉱山−つまりは炭鉱労働者らが町 を支えていた。
 ここ井之浦にも数棟ほどの炭住を抱えた小ヤマがあった。その井之浦炭坑は1957(昭和32)年に閉山。当時給料などの未払いに泣く小ヤマの炭坑労働者 の生活は困窮を極めていた。そのため一家の離散もめずらしくなかったほどである。そんな中、幸袋小学校に通うヤマの子供たちにとって学校の給食が 何よりの救いであったが、その給食も財政難から間もなく休止された。
 炭住外から幸袋小学校へ通学していたという人の話によると、「自分は学校で給食を食べた記憶はないが、井之浦炭住の子だけは硬くて子供の顔位い長い コッペパンを貰っていたという記憶がある」と言い、「同じクラスに井之浦炭住の男子が1人、女子が3人いて、男の子はそのまま幸袋中学校を卒業し飯塚市内 に就職したが、女子の1人は小学校をほとんど欠席していたし、あとの2人のその後の消息もわからない」ということだった。
 そんな中、写真家・土門拳の写真集「筑豊のこどもたち」により、井之浦炭坑等で暮す子供らの悲惨な生活状態が社会的に注目されるようになり、筑豊の こどもたちを救おうという「黒い羽根運動」のきっかけとなっていった。

JR九州バス停留所「井の浦口」

 井之浦炭坑は、土門拳の写真集「筑豊のこどもたち」の中に写る、るみえちゃん姉妹のふるさとでもある。しかし、ここに 炭坑があったという面影は今はなく、あえて言うなら、幹線道路にあるJR九州バスの停留所名が「井の浦口」というぐらいである。

るみえちゃんの記憶の中の食料品店

 先のるみえちゃんの記憶によれば、井之浦炭坑住宅があった場所の下方には食料品店が1軒あったと言い、同写真に写る 「ヤマザキパン」の赤い看板が同店だと思われる。「昔は炭住の入り口に商店があり、あまり良い印象はなかった」と言う人もいる。どちらにしても、 るみえちゃん姉妹は現在はそれぞれに結婚して新しい家族に恵まれ県外で幸せに暮らしていると聞く。

白旗団地住宅案内図

 井之浦炭坑のすぐ側に炭住があったと言い、現在建ち並ぶ市営住宅「白旗団地」あたりがそうではなかったかと思われる。 なお、「白旗団地」の呼び名は、近くに白旗山(標高163メートル)があるところから、そう呼ばれているようである。その白旗山麓の谷々には、 他にも小ヤマがあって、閉山当時は失業者であふれかえっていたという。

市営白旗団地

 近くには陸上自衛隊飯塚駐屯地があり、その官舎が市営白旗団地の側に建つ。同駐屯地がある場所もまた廃坑となった 坑道の埋立のため山砂を採取した砂取り場であった。

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