小鳥塚  福岡県飯塚市大字上三緒(かみお)字小鳥塚


 小鳥塚という地名にふさわしい所に、「小鳥塚」の碑文が建っている。その右横には麻生鉱業鰍フ雁石坑坑口跡が残っている。
 炭鉱災害で最もこわいのが炭塵ガス爆発事故である。その一酸化炭素ガス予知のため、多くの小鳥たちが坑内に持ち込まれ、災害を未然に防止し、そして可憐な命を絶っていった。
 明治初年以来、大正から昭和10年ころまでは、機械によるガス探知機は開発されていなかった。ガスや炭塵に非常に敏感な習性を持つ小鳥たちは、坑内にガスが満ち溢れると目に見えて弱り、止まり木につかまる力を失って止まり木から落ちるようになる。それを見ていち早くガスの危険性を察知し炭塵ガス爆発を防止してきた。
 ちなみに、小鳥が1時間で苦しみはじめると、人間の場合労働すれば1時間で倒れ、小鳥が30秒で止まり木から落ちると、人間は30分で死亡すると言われている。
 (穂波町教育委員会発行「穂波町ものがたり・炭鉱編」参照)

小鳥塚(2005年7月28日撮影)

 昭和56年5月10日、筑豊炭鉱遺跡研究会によって建立された現在の小鳥塚は、当初は、ボタ石を積み上げた上に、さらに1メートルあまりのボタ石を建てて、目白塚と呼び、ヤマの人たちが清掃したりお花をたむけたりして供養していた。それを新しい小鳥塚に立て替えようという声があがり、筑豊炭鉱遺跡研究会が資金カンパ活動を展開して、その浄財によって、坑内で犠牲となった小鳥たちの慰霊碑が造られたのである。
 小鳥塚の周りには、今も昔のボタ石がいくつか残っている。
 (穂波町教育委員会発行「穂波町ものがたり・炭鉱編」参照)

小鳥塚(2005年7月28日撮影)

 「ヤマの男と小鳥との切っても切れない愛情物語がある。ある時、坑内に落盤事故があって1人の坑夫が圧死した。その側にメジロも共に死んでいる姿が発見されたが、よく見るとメジロは口ばしを飼主の口へ差し込んだままだった。メジロは圧死ではなく、餓死したようで、エサを主人にねだりながら息絶えたのであった。この情景を目の当たりにした 人たちは心をうたれ、涙を誘われたという。」(穂波町教育委員会発行「穂波町ものがたり」より)

 小鳥塚の碑には、可憐に飛び交う小鳥たちの図柄が描かれてあった。

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